20180707

今日から大学生活日記な感じで誰でも見れるようなところで日々の記録をつけていきたいと思う

気が向いたらやる感じで、できれば4年間続けていければいいかなと

自分が書く記事を見て不快に思う人も少なからずいるとは思うがその場合はそっとこの記事を閉じてほしい、、

とりあえずここにくるまでと最近の出来事をまとめてみる

 

 

3月24日

 

福岡から大学進学するため、しばらく滞在してくれる母親とともに新幹線に乗って5時間(+電車などで2時間)かけて埼玉までやってきた。

新幹線に乗って遠くまで行ったのは中学二年のときに父親の勤続20年(確か)でUSJと叔父のいる神戸に行ったとき以来だ。

なぜ5時間もかかる新幹線に乗ってきたかというと、引っ越す数日前に予約していた飛行機がなぜか欠航になったからである。理由もわからずしかも数日後には引っ越しを控えているのに22時過ぎに母親にその事実を聞かされ急いで代わりの便なりを探した。

そして結局新幹線になったのだ、が、しかしここで飛行機が欠航して良かったと思えるニュースが飛び込んできた。格安航空でおなじみのpeachのタイヤがパンクして数時間空港が閉鎖になったのだ。きっと欠航になっていなかったら数時間の足止めを食らっていただろう、、、

母親と車内で喜んでいた。

それからなんとか新居にたどり着き、地元の高校付近とそんなに変わらない田舎加減にびびりつつもこれから始まる新生活に胸を膨らませていた。

 

 

4月2日

 

大学の入学式と母親が帰る日である。

実家ではそれぞれの部屋にいたのだが、引っ越してきてからというもの1Kの部屋に2人いる生活をしているとかなりのストレスになって母親に対する態度が徐々に悪くなり母親の気持ちを一切考えずに傷つける言葉を言ってしまい泣かせてしまった日があった。

何度友人に電話に付き合ってもらったことか、ありがとう。。

そしてふとしたときに親のありがたみを感じて後悔の念に駆られ金曜日の夜電話で何度泣きながら母親に謝ったか覚えていない。

とりあえず本格的に一人暮らしが始まったのである。

 

 

4月某日

 

興味のあるサークルに入った。何度か部会には参加していたが何かが違うと感じて早々にやめてしまった。しかしこの選択は間違っていないと思っている。

 

 

5月某日

 

同好会を作ろうと思い具体的に考えていくことにした。この考えに至ったのも母親に相談していたからだ。ありがとう。。。

ある日友人に「同好会を作りたいんやけど一緒にやらん?」といったところ簡単にOKの返事が返ってきた。そしてどこからともなく賛同してくれた人が集まってくれて人数が増え、無事学校からの活動許可がおりた。今日までに部員は自分含め9人いる。みんなありがとう。。。

 

 

6月某日

 

熊本で一人暮らしをしている大学生の兄がゼミの大会で東京に来ると言うことで会いに行った。落ち合えるまでに時間はかかったが久しぶりにあったので懐かしさを感じたのと同時に寂しくて家に帰りたくなった。しっかりとご飯はおごってもらい兄と一緒にいた友人と3人で池袋をぶらぶらしていた。しかしまだ泊まるホテルが決まってないと言うことでやることもないので家に帰った。また近いうちに会えるといいが、、、。

 

 

6月某日

 

入学して2ヶ月ぐらいが経ち、友人も徐々に増えて小学生から今までの学生生活で今が一番楽しいと初めて思える学生生活で心から親に感謝している。

最後の週、私の誕生日であった。日を越してすぐに兄や母や友人がLINEやTwitterで祝ってくれ、学校に行ったらそこでも祝ってくれて感無量であった。あとは家に帰って大好物のオムライスを作って寝るだけや~と思いシャワーを浴びているとチャイムが鳴っているのに気づいた。NHKかと思って焦ったが笑い声がするので友人だとすぐにわかった。がしかしやで、全裸で出られるわけがないのでしばらく待ってもらい玄関を開けると友人二人がケーキを持って立っていた。HPBソングを歌ってくれて言葉が出ないほどうれしかった。しかもケーキもおいしかった。。来年期待しとけという気持ちである。本当にありがとう。

 

 

7月某日

 

バイト先の準社員の方が退職した。本人から聞いた理由は割と理不尽なものだった。しかし正当な立ち位置にいる人から聞いた話では、いや、本人も会社も悪いやんけという内容だった。しかし知らないところでそんなことが起こっていたとしても退職していった方にはよくしてもらっていた。こんなところで急に別れが来るとは思ってもいなかったので「来月退職することになった」と聞かされたときは面を食らった。なんせ初めて会ったときに私が体調諸々で倒れてしまいすごく心配をかけてしまったからだ。倒れてから私は案の定病弱というレッテルを貼られて何をするにも心配されることになってしまった。まあそんなことはさておきラストまでいない私は応援の言葉をもらい、感謝の言葉を述べ、握手を交わし、自宅へと帰った。